文師は1950年10月14日、多くの囚人たちと同様に北朝鮮によって処刑される予定であったが、奇跡的に興南収容所に奇襲攻撃が仕掛けられ、文師を含む囚人は救出された。その時、興南工場を攻撃したのは反共組織の大韓青年団であった。大韓青年団は北朝鮮出身の西北青年団と南の5つの青年団を合わせて総称したものであるが、興南を攻撃して解放したのは西北青年団であった。北朝鮮に青年たちを送り込んだ大韓青年団の副団長(西北青年団団長)は文鳳済氏であった。

文鳳済会長
興南収容所解放当時、西北青年団団長だった
 
 (竹谷亘生氏1990.12撮影、光言社「愛の奇跡」P.127)

文鳳済氏(社団法人失郷民愛国運動協議会会長)
1915年6月28日、平安北道寧辺生まれ。1929年学生万歳事件で平安南道价川の中学校を退学。日大経済学部在学中、上海に渡る。日本の敗戦後、北朝鮮で民族派独立運動。韓国では李承晩政権の下で国防部顧問、交通部長(大臣)、治安本部長(大臣)等歴任。
韓国動乱時は大韓青年団副団長(西北青年団団長)として約3000名の若者を北朝鮮に送り込んだ。特に、興南工場には共産主義に反対した政治家や宗教人が収容されていることを知っていたため、西北青年団は興南工場に奇襲攻撃を仕掛け、その結果文鮮明師が救出された。