「苦闘の17年が私に人生で一番大切なことを教えてくれた」
 本間ハツ子氏(本間テル氏の長女)の手記



本間ハツ子さんは、統一教会信者に対する拉致・監禁をはじめとする反対運動の基盤を作った本間テル子氏(原理運動被害者父母の会=通称「反対父母の会」会長、本名は「本間テル」)の長女です。ハツ子さんは精神病院に監禁されて統一教会からの棄教を迫られるなど、さまざまな反対活動を受けながらも、統一教会の信仰を全うしました。彼女が自分と同様の人権侵害に苦しむ信者たちと、心ある多くの方々に彼らの反対活動の実態を知らせるべく1988年に書いた手記をここに紹介します。(ハツ子さんは現在、統一教会の会員と合同結婚式により結ばれ、家庭を持っています)

「私の証言」 本間ハツ子


●神によって生かきれている自らを発見し、一条の光を見いだした


 私は今ようやく自分の心の内をはっきりと表現することができることに対し、言集に言い尽くせない喜びを感じております。この17年間、私を導いて下さった神様の前に何もお返しすることのできなかった苦痛からようやく解放されようとしています。

 信教の自由がうたわれている日本で、現実に私が体験したことはある人々にとっては信じられないことかもしれません。私が統一教会と出会ったのは20歳の時です。それまでの私はただ死ぬことだけを考えて生きているような人間でした。
 なぜ私が死ぬことだけを考えていたのかと申しますと、私の人生のいっさいの価値基準が母そのものであったからです。母は比較的裕福な家庭に生まれ、とても可愛がられて育ちました。ところが父親の自殺、そしてそこからくる経済的破綻、その上母自身の結婚も意に反するものでしたから母にとつてみれば紋女の人年は実に納得のいかないものでした。

 父と母の言い争いが絶えない家庭で育った私は、自分の存在それ自体さえ罪なのではないか、生まれて〈るべきではなかったのではないかという思いにいつもつきまとわれていました。そうしたことが次第に現実から逃避して空想の世界に生きる自分を作っていくようになりまLた。

 そんな私が、はじめて統一教会に案内された時迎えてくれたのは、かつて酒びたりの生活に明け暮れていたという人でした。そんな人が統一教会の教えを受け入れてからは希望に燃え輝いているのです。見ず知らずの私を暖かく迎えて〈れる人たちの姿に心打たれ、私もこの人たちの仲間になりたいと思ったのです。
 ところが実際に統一原理を受講してみると、そこでは、個性を完成Lた男女がまず夫婦となり、しかる後に子供を生み家庭を作るということが神の願いであると説いていました。私は、すべてにおいて私よりも素晴らしかった母でさえ幸せな家庭をつくれなかったのに、私が幸せな家庭をつくれるはずがないという思いが強くありました。

 ですから統一原理で説く理想の世界と実際の自分の姿に埋めようのないギャップを感じ、絶望感に打ちひしがれた私は睡眠薬を多量に飲んで自殺をはかったのです。ところが昏睡状態の後、二日くらいして目を覚まし、シーツに薬を吐いてよみがえった自分を発見したのです。その時、明らかに神によつて生かされていること、守られていることを実感しました。そうすると今度は一転して自分の存在を肯定することができるようになり、一条の光を見いだしまLた。それからは自分から求めるようにして熱心に統一原理を学ぷようになりまLた。

●精神病院への強制入院、信仰を捨てるまでは自由がない!

 ところが私の兄がひどく心配し、わざわざ仕事の休みを取って研修会に参加している私を迎えに釆たのです。そのとき私は人生に対しで希望を見いだした自分の姿を兄に見せたかったし、何よりも母に見てもらいたいと思いました。母なら私の気持ちを分かってくれる、誰よりも喜んで〈れると確信して家に帰りました。しかしその夜少し話をしただけで、次の日突然母の手で精神病院に強制入院させられました。

 これは後になって分かったのですが、私の親戚筋にあたる女性がやはり統一教会に入会していて、それに反対した親が披女を精神病院に入れて信仰を捨てさせたというのです。(彼女はその後もさまざまな迫害の道を通過しながら、現在は統一教会に戻っています) それを聞き知っていた母は私に対しても同じ方法をとったのです。

 
はじめ私はとても驚きましたが、先生が問診して下されば私が正常だということが分かるはずだと安心していまLた。ところがその病院につくと受付もしてもらえず、両脇を看護婦に抱きかかえられたまま入院病棟に運ばれ、三方が窓になっている部屋に入れられて24時間監視のもとにおかれました。そして抵抗する私の頭を押さえて毎食後、無理に鎮静剤のようなものを飲ませるのです。

 薬を飲むと頭がもうろうとしてきますので、とにかく薬を飲まないためにはどうすればいいのかを考えました。また、無理に飲まされるときの屈辱感から逃れるためにもまず自分から進んで飲もうと思い、それを実行しました。それからは薬は自分で飲めるようになりました。常時看護婦の監視の目がありましたが、その目を盗んで、薬を飲むふりをして実際は全部流してしまうということを思いつきました。それも背を向けて飲んでいると疑われますから、斜めに構えて、苦い顔をするという知恵も使いました。

 
私の前に院長が現れたのは一遇間以上も過ぎたころでしょうか。その時も結局問診がないまま、ただ「信仰を捨てないと一生ここだよ」という信じられないような言葉を吐き捨てるように言っただけでした。

●追いつめられた魂を救ったのは病室に残された一片の紙切れだった

 田舎で、精神病院に入るということは何代も尾を引いて語り草になるくらいの大変な恥辱なのです。自分の親がよくそんなところに私をと、非常にショックを受けました。と同時に親の決定的な裏切りを感じたのです。その時母に対する恨みのようなものが噴き出して気も狂わんばかりでした。24時間監視下のもとで自分は発狂するのではないか、その発狂を持って私の病名を付けようとしているのではないかという疑いがわき起り、そんな疑念に負けてはならないと必死の祈りをして闘うしかありませんでした。

 その病院は六畳ほどの部屋にベッドが二つ入っているだけであとはなにもありません。筆記用具もメモを持ち込むこともゆるされませんでした。正常な人間でもそういう状況に置かれると、いつ発狂するかわからないという恐怖心が日増しに強くなり、段々と悲観的にものを見詰めるようになってしまいます。そんな重圧に耐えられず自暴自乗に陥ったのが病院に入って二週間ほどたった時です.

 ちょうどその日、何もないはずの病室からT字型のカミソリが出てきたのです。これは別の世界にいきなさいということかもしれないという思いがわいてきて、早々に刃を取り外し自殺を考えました。

 数日後、自殺の前にもう一度、神に自分の進むべき道を尋ねてみようと祈りました。すると、壁の隙間にきれいに折り畳んで押し込んである紙切れを発見したのです。手に取って広げてみると研修会でよく歌った「我らは常に勝利」という聖歌が書いてありました。これこそ奇跡中の奇跡、天からの励ましと感じ、再び神によって生かされている自分を発見し、喜びに涙が溢れてきました。その時、どのような状況の中でも常に神が共にあって私を導いて下さっているという確信を得ることができました。この紙切れがその何よりの証詞であると思い下着に隠し大切に持っていました。

 後で分ったことですが、その紙切れは奇しくも、以前同じように統一教会の信仰を捨てるようにと強制入院させられていた前述の女性が、薬の包み紙に書いて挟んでおいたものだったのです。

●退院による解放も得られず格子なき牢獄の日々が続いた

 
とにかくその瞬間から希望を見いだし力を得た私は、一転して脱出の方法を考え祈り始めました。そして精神病院を出るための手段として、信仰を捨てたように見せかけようと考え、教会には行きませんと母に言いました。しかし、病院の院長には信仰を捨てたとはどうしても言えなくて、捨てるように努力するということで退院の許可を得ました。それ以上入院を続けることは経済的にも厳しく母の方も大変だったということもあります。

 結局、60日聞入院し、ようやく精神病院から出ることができました。しかL、退院によって解放されたわけではありませんでした。妹にしても私が本当におかしくなって入院したものと思い込んでいましたので、私がちょっとした勘違いから間違ったことを言ったとしても、決してそれを指摘しようとはしませんでした。内心ではやっばりと思って私を哀れんでいたのです。また、町の人全体が母に言い含められていて、私が可愛そうな人間だから救ってあげなければならないという気持ちから母に荷担し、私の行動を逐一報告するのです。ですから、母もその人たちの言うことを信じて私の言葉には耳を傾けてはくれませんでした。

 精神病院に入っていたというレッテルを貼られた私は、すべての人から哀れみの目で見られ、常に多くの人々から監視されていました。それは病院で24時間監視される以上の屈辱的内容で、まさに格子なき牢獄に匹敵するものでした。
 そういう中で、再び教会に戻って神のために働きたいと、それだけを希望に生活していました。そして六か月後、二度と帰らない決意で家を出ました。

●帰るべき家庭を失った母は、親子関係の修復より反対運動に走った

 ところが、母は毎日毎日秋田教会に押しかけては、廊下の聖画を破り捨てトイレに流すという蛮行を続けたのです。たまりかねた教会の人は不法侵入で母を警察に訴えました。そういうことが続いたため、再び家に帰らざるを得ない状況になりました。しかし、私はそのまま家に帰るという気にはなれませんでした。そこで日曜日の礼拝参加を認めてもらい、自由を束縛しないという約束を取りつけるために秋田教会にとどまり、母との交渉に入ったわけです。その条件が何とか受け入れられ家に帰りました。

 そのころ能代には5、6人が家庭の反対に遭い、統一教会に通うことを禁じられ家に帰されていました。その中の一人でKさんのお父さんは、子供の言い分も開こうと自宅を提供して下さり勉強会が始まりました。教会から責任者が来て下さり統一原理の講義が行われました。

 
子供を理解しようとする親は熱心に講義を聞こうとしましたが、私の母がロを挟んで最後まで講義をすることはできませんでした。そして、私の母を除く他の家族は、統一教会に対する反対運動は誰か代理を立てて続けるものの、自分たちは直接反対運動には携わらず、まず自分たちの親子関係を修復しようという考えが出てきたのです。それに対して母は「自分の家の問題さえ解決できればそれでいいのか」と言って他の家庭のことを非難し、自分の家庭は顧みなくなりました。そして、秋田教会で約束したこともいつしか忘れられ、私の行動が再び拘束されるようになっていったのです。

 そんなある日、母はKさんのお父さんから、あなたは母親としで失格だ、そんなことだから娘さんがあなたを嫌い教会にいくんだというようなことを随分激しく言われたようです。Kさんのお父さんは、普段は非常に温厚な人なのです。また母は、父が蒸発していたこともあり、Kさんのお父さんを頼りに反対運動を続けていました。それだけに母にとって、そのことが非常にショックだったようです。
親として一番痛いところをつかれたわけですが、すでに母には帰るべき平和な家庭はなかったのです。それで地元の反対派とも訣別し、全国的な組織活動へと行動半径を広げていったのです。

●統一教会壊滅が生き甲斐となった母とそれを利用する人々

 それからは互いに利害関係を同じくする人々、地元の共産党系の議員、日本基督教団能代教会、それから地元を超えた全国的組織の繋がりへと急速に進んで行きました。母は「新婦人の会」という共産党のフロント組織をつかったり、とにかく統一教会を誹議・中傷してくれる所ならどこへでも出かけて行って訴え続けました。多少とも利用価値のあるものなら何でも使ったわけです。また、母は能代教会で洗礼を受けており、母自身のロから反対運動の資金は能代教会から出ているということを聞いたこともあります。

 とにかくあらゆるところと連帯しながち組織の作り方、運動のノウハウを学び、反対運動を発展させていったのですが、いつしかそれが母に残された最後の生き甲斐ともなってしよいました。そのことがまた、私と母の溝を深め悲劇を大きくしていったのだと思うのです。

 そんな母も、私が伯父の強引な勧めに負けてお見合いをしたときには、反対運動を一時やめるかのような素振りをしました。しかし、すでに統一原理によって信仰を共にする人との結婚を希望していた私でした。だから当然のようにそのお見合いの話は断りました。そのことが母の逆鱗(げきりん)に触れ、それまでどんなに逆上しても決して口にしなかった「出ていけ!」という言葉を母はついに吐いてしまったのです。そして「あんたは教会員を除名されているし、絶対統一教会には帰れない。そうなったとしても絶対家の敷居はまたがせない!」と激しく言い放ちました。その時私は再び家を出たのです。

●反対運動は、親子が話し合い、理解し合う場さえ奪い去る

 それから6年、母とは一度も会っていません。話もしていません。ただ統一教会に帰ってまた迷惑を掛けるようなことはしたくないと思い、どんな集会にも参加することなく過ごしてきました。それでも時々耳にする統一教会の発展の様子に喜びを感じると同時に、そこに参加できない自分に一抹の寂しさもありまLた。

 それでもこれが神様が私に与えて下さった最善の道であると信じ、じっと忍耐してきたのです。ただいつの日か私にも神のみ旨を正々堂々と歩ませて下さいと祈りつつ私が教会に行かなければ母の反対も少しはやわらぐだろうとの期待を持って生きるばかりでした。

 しかし私の願いも空しく、母の反対運動はますます激しくなり、そそのかされた多くの親たちによって何人もの信仰の友が犠牲になっていることを知り、心の痛みを覚えました。そして、たとえ母と再び関わなければならなかったとしても、今私は信教の自由擁護のために最善を冬くそうという誓いを神の前に立て、あえてこのような証言をすることに踏み切ったのです。

 私は多くの父兄の方々、あるいは反対運動に携わっている人々に叫びたいのです。私の母本間テルの本当の目的を知ってはしいと。母は一切の寂Lさや恨みなど、報われなかった自分の人生に対するやり場のない憤懣(ふんまん)のすべてを反対運動にぷつけているのです。自分の家庭にひき起こされた悲劇を他の多くの家庭にまで波及させようとしているのです。

 
母は統一教会に関するあらゆる情報を収集しています。それゆえ統一教会が潰しようのない堅固な団体であることもよく知っていよす。また、統一教会に対する非難、中傷が何ら根拠のないものであることもよく分かっているのです。分かっていながら反対運動がなくなるその時が同時に自分自身の存在理由のなくなる時であることも知っているが故に、どんなことがあっても反対運動をやめられないのです。

 このような問題は、本来親子が誠意をもってじっくり話し合えば解決できることです。それをあえて話し合いのできないような状況を故意に作り出Lているとしか言いようのない、まさに反対のための反対運動なのです。

●迫害の中にある友を救うことを自らの使命と悟り、ここに証言する

 娘として自分を生んでくれた母親をこのように言わなければならないことは心痛の極みです。今、虚心坦懐になって母を一人の女性として見たとき、とてもかわいそうな人だと思うのです。母が生きてきた時代、その苦難の道のりを思うとき、母を襲った悲運の半生は避け難いことだったかも知れません。また私の信仰にとつてもこのような迫害は、私の魂を鍛錬するために神が与えた試練だったようにも思います。

 しかし、統一教会撲滅に狂騒する共産主義者や一部の悪質な牧師たちが存在している以上、悲劇は繰り返されていくのです。もし私が15年たった今も沈黙を守り通すなら、犠牲者はさらに増え続けるでしょう。これ以上私は、私の母の反対行動を許すことはできないのです。またそうした母を利用して反対運動を煽動する共産主義者とそれに荷担する牧師や弁護士、言論人なども許すことができません。信教の自由を侵し続ける“統一教会信徒ら致・監禁事件”は現在の日本にとって極めて重大な社会問題となりつつあります。

 そして私は、このことの重大さをあらゆる人々に訴える最もふさわしい人間が自分自身であることを信じています。その確信を持ったが故に、神が今この時に私を召命し、迫害されている信仰の友を救うよう使命を与えてくださったのだと思います。

 自分が通ってきたと同じ道を他の人が辿ることは私にとつて実に堪え難いことです。それ以上に、神様にとってはもっと堪え難いことに逢いありません。神における真の自由が我々人間にとって、そして神にとってどれほど尊いものであるかを、私自身の17年間の体験を通して知っていただきたいと願うばかりです。そして、親子をつなぐものはただ愛だけしかないということも。

なお、本間ハツ子さんは1988年10月15日付で「声明文」を公表しました。