第1章 人間は本来どういう存在か   [真人類論]

 1.ユダヤ神秘思想「カバラ」の奥義

 ●真人類になる修行体系「命の木」

 さて、人類史解明の旅に出よう。しかし、歴史の研究で最初に問題となるのは、一体その出発点をどこに置くかという事である。そもそも「人類」というものは何のために地上に誕生したのだろうか。大昔の記憶をたどっていく事ができれば便利だろうが、そういうわけにもいかない。何万年も経過しているうちに、我々は人類の本当の姿や機能を見失ってしまったのではないだろうか。まさに人類全体が記憶を喪失しているようにも思われる。

 では、もともと人間とはいかなる存在なのであろうか。その問題を解くパワーを持つ思想を求めていくと、人類の文明発生以来の歴史を誇るユダヤ思想(特に神秘思想)にたどりつく。ユダヤの神秘思想は「カバラ」と総称されている。カバラとは、ヘブライ語の「カバル」(受け取る)に由来し、「伝授された者」という意義を含んでおり、その教義はユダヤに古来から伝わる秘伝・秘術の体系をなしている。
 そのカバラによると、人間は本来、神と自由に通じる事のできる神秘的・霊的存在なのである。そして、その原型を「命の木」という独特の図形的イメージで表示している。この「命の木」こそ真人類の青写真であり、同時に真の人間の機能(知恵や霊力)を回復するための修行体系にもなっているもので、カバラの基本であり最終的な奥義でもある。それで、ユダヤ思想によると、「命の木」を本来の人間(アダム)の原型(アダム・カドモン)として扱うのである。

 ところで、ユダヤ思想は『旧約聖書』をベースとしている。『旧約聖書』は天地創造・人類誕生からメシヤ(救世主)出現の預言までが記されているが、早い話が旧約聖書で預言されているメシヤ(キリスト)こそ「イエス」という人物であると信じるのがキリスト教であり、ユダヤ教においてはイエスをメシヤとして信じることはない。そういう宗教上の問題はのちに検討するとして、旧約聖書に出てくる人類創造の話をしよう。

旧約聖書の最初のほうで「命の木」というものが登場するが、それはは神が人間始祖であるアダムを創造するに当たって、その誕生地(エデン)に植えられた樹木とされている。つまり、アダムという人間が成長する姿を一本の木のイメージで象徴しているのである。なぜ神がアダムを「命の木」という一本の木に喩えたのかというと、アダムが健全な木のように生き生きと育ち、よい実(子孫)を結んでどんどん繁殖してほしいと願ったからだ。ちなみに英語では家系の事をFamily tree というが、神は一本の木としてのアダムが生み殖えて、巨大な「神の家系」のファミリーをなすことを願ったのである。

 人類最初の人間を「アダム」と呼んでいるのは、彼が土(アダーマ)の元素から造られた事によるらしい。神はアダムを御自身の似姿として創造したというが、それはもともとアダムが神の子であった事を示すものである(「創世記」1:27)。そこに神が命の息(霊)を吹き入れたので彼は生きたアダム(人間始祖)となった。そこで、神は彼に次のように言ったという。

  「生めよ、殖えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動く全ての生き物とを治めよ」(「創世記」1:28)

 神が語ったとされるこの表現の中で「生めよ」というのは出産のことではなく、個体が生育することを願う文語的翻訳上の表現である。「殖えよ」が子孫の繁殖を願った言葉で、「治めよ」という言葉は人間を万物の霊長として、地上の責任者として扱おうとする神の気持ちが現れている。
 この中で神がアダムに対して、「殖えよ」と語って彼の結婚と子孫の繁殖を願っている事に注目されたい。というのは、往々にしてクリスチャン(キリスト教徒)の方々は人類は(その始祖であるアダムも)最初っから罪深いものであり、地上にイエスという救世主が現われるまでは、どうしようもない罪人であると考えられがちだからである。ここで、実は神(創造主)は最初からアダムが罪深い者とは考えておらず、「神の子」として地上に繁栄してほしいと願っていたということが重要なのだ。

 アダムの妻はエバという女性である。イブというのは英語的発音で、現在の日本聖書協会口語訳に従って本書では「エバ」としておこう。将来、彼はエバと結婚して大いに子孫を殖やし、全世界、全宇宙を治める存在となるはずであった。しかし、彼は成長の途中で完成できずに堕落し、その場所(エデンの園)から追放されてしまったのだ。堕落というのは、子々孫々に遺伝してしまうような大罪(これを原罪という)を犯してしてしまった事であり、それによって彼は真人類の文明を築く事ができなくなった。だから、彼の子孫はみんな本当の人間の姿がどういうものなのか全く分からなくなったのだ。その原因については、のちに触れよう。

 アダムは、もはや神の子ではなくなり、神がイメージしていた完成図「命の木」には到達できなくなった。そして、地上に神の子ではない者がどんどん繁殖してしまった。神は、彼らが「命の木」になれる方法まで握ってしまったら大変な事になると考え、「命の木に到達する道(方法)を防いだ」(「創世記」3:24)とされる。つまり、その到達方法を秘儀として封印したものと考えられる。

 その時、神が封じられた「命の木」に到達する秘伝的修行プログラムをユダヤ神秘思想(カバラ)は体系化しているわけである。ユダヤ秘儀の研究者であり実践者でもある大沼忠弘氏は名著『実践カバラ』の中で、「『実践カバラ』とは自分を一本の『命の木』として育てる修行なのだ。楽園を追放されたアダムが再び天上にもどるためには、自ら『命の木』となり、その果実を食べなければならない。それによってアダムは、真の『人間』(アントロポス)つまり『アダム・カドモン』(原初人間)となるのだ。これが『神の似姿』としての人間の完成態なのである」(『実践カバラ』、P.50)と述べておられる。

 また、大沼氏はヨーガ修行者でもあるが、古代ユダヤの秘儀である「命の木」の図と古代インドの秘儀であるクンダリニー・ヨーガで用いるチャクラとナディ(チャクラは、クンダリニーという特殊な霊的エネルギーのバッテリーのような器官、ナディはその体内通路)の図が互いに照応する事を示しておられる(同書、P.136 )。ヨーガにおいても最終的には神と人間、あるいは天と地の合一を目的とした修行プログラムが存在するが、修行方式は異なってもカバラ修行がヨーガ修行で通過する神秘体験と同様のステップを通過する事が暗示されているのだ。

私(江本武忠)は、今後も多数の参考文献等を引用しながら解説をするが、私が解説の中で特定の方の文章を「引用」したからといって、その著者の考えと私自身の考えが一致することを意味するものではなく、あくまでも参考のために引用しているにすぎない。そのことは、一般にいかなる論文においても言えることではあるが、念のため一応ここでお断りしておきたい。

 ●神殿としての人間観

 カバラの修行の中には、霊的な光彩を見る視覚化訓練を始め、さまざまな行法がある。その中で注目すべきは、目に見える物理的な神殿と見えない霊的神殿(アストラル神殿)を形成した土台の上で、肉体を持った人間がそのまま神の宿る神殿となるイニシエーションを獲得するという事だ。そして、それが「実践カバラの究極目的」だという(大沼氏、前掲書、P.89)。つまり、ユダヤの秘儀においては人間の究極の姿を神が宿る宮、すなわち神殿に譬えているのである。「命の木」としての人間は、神の宿る神殿でもあったのだ。

 旧約聖書の預言の結論として出現したイエス・キリストは、自分自身を木に譬え、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(「ヨハネ」15:5)と語った。またイエスは自分自身を神殿にも譬えた。イエスは十字架で処刑されて3日後に霊的に復活するのだが、それを「神殿を壊して3日後に建て直す」と表現したのである。

 さて、カバラの「命の木」の図は不思議な構成になっている。それは、10個の球体とそれを結ぶ22本の通路(小径という)からできている。「タロット占い」というものがあるが、タロットは単なる遊びではなく元来カバラの修行手段の一つであり、タロットの絵札カード(大アルカナ)が22枚であるのは「命の木」の小径に対応しているからである。そして球体の最頂部が「王冠」(ケテル)であり最下部が「王国」(マルクト)である事から、この「命の木」はアダムの原型(真の人間)を示すと同時に国王(ヘブライ語でメシヤという)を表わすものともいえる。

 つまり、人間始祖アダムが堕落せずに「命の木」を完成していたとすれば、彼は神の宿る神殿のような存在となり、さらに神の子を繁殖して神の王国を作り、その国王(メシヤ)となるはずだったという事がわかるのである。しかし、それが実現しえなくなったので、もしも彼に代わって「命の木」を完成する者が出現すれば、その者こそ「第二のアダム」と呼ばれ、神の王国を建設する国王(メシヤ)と言われるのである。

 結論を急ぐようだが、実はイエスは堕落してしまったアダムに代わる「第二のアダム」として誕生した人間であったのだが、ユダヤ人に殺されてしまった。ユダヤ人は、イエスがメシヤである事を認めない。だから、イエスの生涯を中心として書かれた『新約聖書』はユダヤ人の信仰の対象ではない。もちろん、イエスをメシヤとして信じる人々(クリスチャン)は新約聖書も旧約聖書も同様に教典として信仰する。

人間は本来、超天才的能力をもっている

 人間が本来神の宿る神殿である、などといっても現代人にはピンと来ないかもしれない。それは無理もない。ある意味では、それはアダムの責任なのだ。アダムが堕落さえしなければ、彼の子孫である我々一人一人が「命の木」であり「神の子」であり、神秘的知恵と霊力に満ちた存在として、お互いが真の愛で一つの平和な王国を築いたはずなのである。

 しかし、そのように人間が本来はとてつもなく天才的な能力を備えているらしいという事実は最近になってかなり多くの人々によって指摘されるようになってきた。たとえば、人間の脳機能の研究は近年飛躍的な進歩を遂げたが、我々の脳はどうやら想像以上に恐るべき機能を発揮するものらしいのである。
 我々人間の脳は百億以上の神経細胞を持ち、その90%以上がまだ未使用状態という神秘に満ちたものである。品川嘉也博士によると、あるコンピュータの記憶容量をビット(データ量の基本単位)で表わし、それが100億ビットぐらいであるとすれば、人間の脳は一生の間に受容した情報の内の1%だけが記憶として残ると計算しても、そのコンピュータの100万倍ほどの記憶容量になるという(『右脳型人間・左脳型人間』P.148 )。しかも、まだ未使用の部分を活用できるようになったら、人間の脳はどれほどの能力を発揮するものか想像する事すらできない。

 ところが、最近簡単な方法で脳機能が驚異的に活性化するという事実が次々に明らかになってきた。大量の情報をこなす必要のあるビジネスマンにはよく知られているかもしれないが、新日本速読研究会の川村明宏会長が提唱される「速脳理論」は注目に値するのであり、脳機能の素晴らしさを示す好例である。
 川村氏の方法は、超高速映像の視覚刺激を脳に与え続けると次第に脳自身がその速度に慣れてきて、やがて脳の中に高速バージョンの情報処理回路が形成されてくる、というものだ。川村氏によるとこの訓練で文庫本を一冊5分で読み切る速読の習得はそれほど困難ではないという。中には一冊の本を1分で読み切る人もあるという。

 これはいわゆる大脳の可塑性(与えられる環境に懸命に慣れようとする柔軟性)を利用したものと思われる。我々の脳は予想以上に柔軟なもので、たとえば、左右が逆に見える特殊なメガネ(逆転プリズム眼鏡)をかけると、最初は感覚に混乱が生じて生活上危険な状態になるが、数週間この眼鏡をかけ続けると脳の中で見事に回路の再編成が行なわれ、ちゃんと新しい視覚環境に適応できるようになるという(塚原仲晃『脳の可塑性と記憶』P.21)。
 だから高速の情報を与え続ければ、次第に脳自体がそれに慣れてきて、情報の高速処理が可能になるという事も十分起こりうる。それぐらい、人間の脳はすぐれた機能を潜在的に持っているのだ。川村氏は言う、「うまくいけば人類全体の文明を飛躍向上させることができるだろう」と(『左脳らくらく速読術』P.202 )。氏の言葉は決して大げさではないような気がする。

 速読と同様に「速聴」による脳開発理論を提唱している田中孝顕氏(SSI脳力活性研究所所長)もおられる。川村氏の速脳理論にも通じるものがあるが、田中氏が独自に開発された速聴機(4倍速でも聞き取れるテープレコーダ)により「ウェルニッケ中枢」(言語情報を追唱する機能部分)を覚醒させれば、その汎化作用で脳全体が高速情報処理をするようになる、というものだ。
 田中氏によれば、速聴を身につけると聖徳太子のように「同時に何人かの話を聴いても、頭が混乱せず、それぞれの話の主旨がはっきりわかるようになる」人がたくさんおられるそうだ(『聴覚刺激で頭の回転が驚くほど速くなる』P.159 )。

 もともと人間というものは、一人一人が実は高性能の「パソコン」を既に搭載しているような存在かもしれない。ただ、それを作動させる方法、特にそのスイッチの入れ方に気がつかなかっただけなのである。そしてそれはもう解明されつつあるのだ。

 それは速読や速聴に限らない。たとえば、ワープロをブラインドタッチでパチパチ打っている人を見ると羨ましく思い、自分には到底無理だと感じる方もおられるだろう。しかし、それも脳のスイッチの入れ方次第で簡単に可能になるのだ。その「スイッチの入れ方」を発見された方の一人が増田忠氏である。関心のある方は増田氏の『キーボードを三時間でマスターする法』等を読んでいただきたい。私自身、氏の本の通りの指示に従って本当に約3時間でほとんどブラインドタッチになってしまったのだ。自分で自分が信じられないぐらい驚いた。増田氏は脳が学習するための「スイッチの入れ方」を開発し、実用可能なものにしたのである。

 私の予想では21世紀の人間は未使用のまま眠っている大脳の九〇%の大部分を作動させる方法を開発していると考えられる。その頃には小学生が高等数学を論じるだろう。脳障害の治療で世界的に著名なグレン・ドーマン博士は、独自に開発した「ドッツカード」という100枚の点画表を使って、1才の幼児がわずか100日程度で自由自在に加減乗除をこなすようになる画期的な教育法を完成させた。『幼児は算数を学びたがっている』という邦訳書で紹介されているが、決して難しい方法ではない。そして、世界中の幼児が親(特に母親)からドーマン式の教育法を受ければ、人類全体の文化水準に革命的変化が起きるかもしれないのだ。ドーマン博士も、脳が一挙に本来的機能を発揮する「スイッチの入れ方」を発見されたのである。日本でも、例えば七田真博士等が幼児段階からの天才教育を提唱されて大きな成果を上げつつあるが、更に深い研究がなされるよう私は期待している。

 つまり、人間は本来いわばマルチメディアそのもののような存在なのだが、残念な事に、アダム以来その作動方法を見失ってしまったのである。ユダヤ秘儀のカバラやインドに伝わるヨーガの修行体系は、霊力を含めて人間が本来持っている潜在的能力を全面的に発揮しコントロールするためのプログラム体系だったのだ。
 実際、西洋魔術の研究家である長尾豊氏はカバラの「命の木」の構造と機能がコンピュータのシステムに酷似している事実を指摘しておられる(『「魔術」は英語の家庭教師』P.81〜87)。
 今後、情報洪水の時代から更にマルチメディア中心の時代へと移行しつつ世代は交代するだろう。21世紀はそのような多様な情報を高速で取捨選択し、消化処理する能力がなければ社会の中心で行動する事はもはや不可能となる。それは、21世紀が「真人類」の時代であるという事をよく示しているのではないだろうか。

 ●人間の本質は、霊である

 ユダヤ思想のみならず、多くの宗教や科学者が認めるように、人間は本来霊的な機能をも備えている。普通の人間でも、「虫の知らせ」とか「視線を感じる」、あるいは「正夢」「白昼夢」「金縛り」等を経験をされている方も多いであろう。もっと、「幽体離脱」「臨死体験」なども体験された方もおられるかもしれない。

 霊的機能は決して不可解なものではなく、本来全ての人間が持っているものである。人間には目に見える肉体と共に霊的な人体(霊人体)が備わっている。脳は目に見える物質的なもの(細胞)でできているが、我々の心の働きや価値判断は、単なる脳神経の活動の次元ではない。脳はあくまでもコンピュータ的なものであり、そういう意味で道具にすぎないともいえる。そして、その道具を動かす「主人」としての人間の心は物質ではなく霊人体の中心として働くものなのである。

 ノーベル医学生理学賞を受賞した著名な脳生理学者のジョン・エックルス博士は『心は脳を超える』の中で、心と脳の働きを区別し、「内的体験の一体化は心が行なうのであって、大脳皮質の神経機構が行なうのではない」(P.76 )と述べ、「私たちの心は複雑をきわめる脳の神経活動を手段にして、外界との連絡と内的体験を実現している」(P.75)として、脳をあくまでも心の手段とみなしている。そして自由に創造したり価値判断をする心を脳機能より優位に置いている。
 また、『生命潮流』で知られるライアル・ワトソン博士は中沢新一教授(宗教学)との対談の中で、普通の人間の1%の重量しかない脳を持つケンブリッジ大学の天才学生の実例をあげて、「意識の源とか知能の源は、もしかすると脳ではなく、別のところにあるのかもしれない。あるいは体外にあるのかもしれない」と述べている。(『週刊ポスト』1993年10月29日号)

 つまり、我々の心の働きは脳機能の次元では説明できないのだ。私の考えでは、「脳はいかなる働きをするのか」などと深刻に脳自体が考えるという事自体、最初からある種の自覚的矛盾を含んでいるのである。つまり、我々が脳機能を客観視しうるのは脳機能以上の次元の働きをする心の存在を前提とせざるをえないのではないかと思うのだ。

 ●霊能者の「感度」と「周波数」の問題

 世の中には、「霊能者」といわれる人々が存在する。現代の世界的な霊能者としては、「リーディング」という独特の予知方法で知られる故エドガー・ケイシー、ケネディ暗殺予言で著名なジーン・ディクソン女史、スプーン曲げ等で有名なユリ・ゲラー氏等がある。日本の霊能者としては、三穂希祐月氏宜保愛子氏慈雲法師山本建造氏太田千寿氏清田益章氏前田和慧氏高塚光氏等といったところだろうか。

 他にも多くの霊能者が存在すると思われるが、その実力の内容はさまざまである。荒修行をして霊能力を獲得した人や、幸運にも(?)ハプニング的に能力が身についたような人もいる。いずれにせよ、人間が本来的に霊的存在であるとすれば、彼らはそういう点で真人類に近いのかもしれない。

 しかし、霊能者に対する評価は「感度」(強弱)と「周波数」(高低)という両側面からなされるべきなのである。 「感度」の良好な霊能者は、ある程度たくさん存在するのではないかと思う。人の先祖の霊をはっきり霊視したり、失われたものの所在を感じ取ったり、事件現場で犯人像を的中させる、などの能力である。

 ところが、本当は霊能者にとって大切なのは感度の強さではなく、霊的な「周波数」の高さの方なのだ。つまり、霊界にも高級なレベルから低級レベルまでいろいろあるのである。一体どのレベルの霊界と周波数(チャンネル)が合っているのかが重要なのだ。たとえば、奇妙な予言ばかりして、人格的に片寄りのある霊能者には(予言が当たるかどうかにかかわらず)あまり近づかない方がよい。変な霊界にまとわり憑かれて身辺に奇妙な事件ばかり起こり始める事がある。実は、真に高級な霊能者というのは、ある意味で普通の人間が感心するほど常識的な判断をする人なのである。

 今までは霊能者と科学者がお互いに批判しあう、という構図があったが、世紀末が近づくと霊能者同士の意見が対立するような事態が生じるだろう。漫画ではないが、霊的バトルゲームのような事も起こりうる。なぜなら、周波数の違いからとんでもない雑音や怪情報や煽動などが霊的に横行する事が予想されるからである。しかし、最後まで残る霊能者というのは宇宙全体に流れる大きな意思をキャッチしうるほどに高度な周波数と常に同調し、しかも正確な感度を持つ人物に限られてくるといえよう。