3.宇宙論の最大テーマ「人間原理」

 ●人間こそ宇宙の中心存在

 以上の考察によって、人間が誕生した地球は奇蹟の星であり、人間自身もサルから進化してきたけど宇宙人には負けるという、いわば「サル以上宇宙人以下」というような中途半端なものではなく、全宇宙を掌握するほどの可能性を秘めた存在であるという事を述べてきた。
 そのように、宇宙の中で人間に中心的な位置を与え、宇宙自体が人間を生み出すという目的を持っているという考え方を宇宙論では「人間原理」(Anthropic Principle )と呼んでいる。「人間原理」の支持者としては、スティーブン・ホーキング博士等が有名である。

 「私たちはいつまでも暗闇の中を手探りするように運命づけられているのではなく、宇宙を解明する完全な理論への突破口もやがて開かれることでしょう。そのときこそ私たちは本当に、『宇宙の支配者』となるのです」(『ホーキングの最新宇宙論』P.13)という博士の、人間としての自信に満ちた言葉はこの人間原理の考え方に基づくものと思われるし、また当然UFOとか宇宙人の存在について否定的である。博士が一九九二年に来日された時、都内のホテルでの記者会見で「この宇宙に高度な生命体が存在するならば、とっくに地球を訪れているはず」と述べ、「地球外知的生物と交信できる可能性は低い」と語っている(「世界日報」1992年8月29日号)。
 人間原理に対して、宇宙には特定の中心は存在せず、密度も一様で回転軸のような特別の方向も存在しないという考え方が「宇宙原理」の基本である(松田卓也『人間原理の宇宙論』P.43などを参照)。また、宇宙原理の立場にある人々は当然、人間よりも宇宙に重点を置いた宇宙観に立つので、人間のような知的生命の発生するために宇宙が何らかの目的や方向性を持つという考えは否定される。

 ●人間原理の本質的解明

 人間原理という考え方は、宇宙論の科学者(ディッケ、カーター、ホイル、コリンズ、ホーキング、カー、エリス等)によって論じられてきたものである。日本では京都大学の松田卓也博士等がこの立場に立っておられる。しかし、ほとんどが「科学者」である。それは当たり前の事かもしれないが、実は重要な問題なのだ。というのは、人間原理という発想は科学というよりはむしろ哲学的な側面が大きいからである。
 たとえば松田博士も「人間原理はそれ自体が研究の対象というよりは、ひとつの哲学である。考え方である」(『人間原理の宇宙論』P.236 )あるいは「実は人間原理の立場はあくまでも哲学であり、それを科学的に説明することはできない」(『これからの宇宙論』P.203 )と述べておられる。しかし、「わたしとしては、人間原理の立場に立つことによって、もろもろの考え方が、パッと目が開けたようになるし、宇宙からさらに話をすすめて文明の進化といったものにまで一つの暗示を得られるような気がする」と言われる。

 創価大学の野田春彦教授も「人間原理というのは科学ではないですね。哲学だと思います」と言われながらも「(科学的証明はできないが)宇宙には生命を作りたがる傾向があるとしか考えられない」と述べて、人間原理的な見解を指示されている(「世界日報」1993年3月17日号)。
 また、脳研究で著名な角田忠信博士は、人間の脳には驚くべき精度の年輪様変化が存在する事を発見され、「ヒトの脳には生命の誕生から連続的に、宇宙の運行と同期して働く、正確な年輪システムが存在することが明らかになった。このシステムには人種・性・年齢による差はなく、人間は明らかに天体の運行に組み込まれた宇宙の子であるといえよう」と述べておられる(『右脳と左脳』P.207 )。
 今後も科学の研究が進めば進むほど、むしろ人間原理というものの証明が積極的に要求されてくる傾向があるのではないかといえるのではないだろうか。

 ただ、多くの学者が指摘されるように、人間原理という考えは科学的証明が困難である。なぜなら、「人間が宇宙の中心である」という意見に対して、「私はそんな考えは認めない」と言い張ってがんばる人には、無理に分かってもらう手段や決定的証明というものは一つもない、という性質の真理であるからだ。そしてそういう人々に対して結局何の証明もできないものだとすれば、人間原理は単なる独断的見解にすぎないという事にもなるだろう。

 しかし、はたしてそうだろうか。本当に、人間原理は客観性をもちえない真理にすぎないのだろうか。私は決してそうは思わない。私の考えでは、「人間が宇宙の中心存在である」という真理自体が、そのように最終的には本人自身の主体的・自主的選択に任さざるを得ない性質の真理である、という事実こそがとりもなおさず、人間が宇宙の中心存在であるという事実を最もよく表わす決定的証明になっているのではないかと思うのだ(ちょっとややこしいが)。
 別な言い方をすれば、人間というものが宇宙の中心だからこそ、同時に「人間原理」という真理の認定者でもあるのだ。つまり、人間が宇宙の中心として立つかどうかの最終決定は、人間自身の選択(責任)に委ねられているのである。それが、人間こそ宇宙の中心存在(責任者)だという「意味」なのである。責任を負うという事は、自由な選択を迫られるという事と表裏一体である。フランスの哲学者サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」といったが、人間が持つ自由に伴う責任の重さをよく言い表わしている。

 したがって、人間原理という真理は普通の真理とはかなり異なった性質を帯びてくる。それは、この真理を認める事自体に一種の「責任感」というか「宇宙に対する決意」のような情感が伴う、という事である。つまりこの真理を認めた瞬間、その人は宇宙の将来に対して「主人」としての責任を負うことを宣布する事にならざるをえないのだ。いわば責任を伴う真理といえる。ある意味では自分が宇宙の主人になるのだから、この真理に立った時から宇宙の全てが「わがごと」となる、ともいえるだろう。

 私は科学の分野で人間原理という考えが生じてきた事に深い意義を感じている。なぜなら、宇宙論が人間原理という哲学性を持つ真理に到達してはじめて、科学的真理と宗教的・哲学的真理が同質になる、つまり実質的な対話が可能になると思われるからである。
 神奈川大学の桜井邦朋教授(元NASA主任研究員)は『寿命の法則』の中で、宇宙があまりにも人間に好都合にできているという事について実例をあげながら、「この宇宙が、何だか私たち人類を、この地球上に存在させるために何らかの仕掛けをしているのではないかなどと考えたくなってしまう」(P.224 )と述べ、御自身も人間原理に共鳴する立場をとっておられる。そして「この宇宙の中には、何か宇宙理性とでも呼べるような唯一の“神”的な存在があって、この宇宙の誕生から進化の歴史まですべて支配しており、その歴史の中で、その企みを鑑賞できるような生き物として、人類をつくりだしたのではないかとさえ思えるのです」(P.214 )とも書いておられる。宇宙をトータルに見つめ続けてこられた科学者としての偽らざる実感ではないかと思われる。

 科学というものは「なぜ宇宙はあるのか」という問題への結論を出さずに、この宇宙が「いかにあるか」という事の研究に専念してきた。また、だからこそ今日の科学の発展があるともいえる。しかし、ここまで宇宙の姿がわかってくると、「なぜ、こんなに人間の生存を基準として宇宙は存在しているのか!」という疑問を科学者自身が叫ばざるをえない所まできたのである。
 だから「なぜ?」と聞かれても理屈で説明する事は難しくても、自覚としては否定できない感覚というものは非常に重要である。アポロ15号の宇宙飛行士として月の石を持ち帰ったジェームス・アーウィン氏は、立花隆氏との対話の中で「…宇宙空間から地球の姿を見たとき、この地球が宇宙において全く特別の存在であることがどう否定しようもなくわかった。地球と、地球以外の宇宙のすべてとは、全くの別物なのだ。その否定しがたい事実が目の前に突きつけられる。そのとき、これは神の直接の創造物以外ではありえないと思った」(『宇宙からの帰還』P.149 )と語っている。このような感覚こそ同時代に生きる人類が共同で体験した、貴重な資料なのである。

 ●人間原理の宗教的解釈

 さて、人間が宇宙の中心存在であるという真理を宗教的に見た場合、どのように解釈しうるであろうか。
 宗教的な観点からいえば、人間は天地を創造した神(創造主)の子供であり、親が創造主だからこそ人間は親に似て、他の動物とは違う「創造性」を持っているのである。親が宇宙の総責任者だからこそ、子供である人間は宇宙に対して懸命に責任を持とうとする本性を持っているのである。
 また少し観点を変えて、人間を宇宙の側から見ればどのようになるだろうか。人間原理の立場に立てば、人間は宇宙にとって中心存在であり、主人であり、責任者である。つまり、人間が宇宙の主人としてふさわしい内容(機能)を完成してくれない限り、宇宙全体が完成しないのである。それどころか、主人が「暴君」だったり「好色家」だったり「バカ殿様」だったりすると、宇宙は大きな打撃を被ることになってしまう。
 人間が真に「万物の霊長」として全被造物の主人となるためには、親である神が無限の愛で宇宙を照らしているように、その親の持っている愛の性質を人間自身が相続してその愛を実践するようにならなければいけないのである。真の人間とは、一言でいえば、創造主(親)がもつ性質の中でももっとも本質である真の愛の体得者の事なのである。


 聖パウロという人物は布教のために書いた手紙の中で次のように述べている。
  「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」(ロマ書8:19)

 このパウロの言葉は、人類が「神の子たち」という立場から脱線しているために、被造物である花や鳥や虫や、動物たちや山や川や大自然、そして宇宙そのものが本来の色彩や息吹きを失って嘆息しているありさまを霊的に直感したものとして理解しうる。