4.人間存在の真相

 ●人間が経験する三つの世界

 人類史を真に理解するためには、人間の存在様相についてある程度知っておく必要がある。なぜなら、歴史が繰り返すという現象の真相の原点には、宇宙の中心存在としての人間が本来的に持っている特性が深く関わってくるからである。
 人間は、宇宙(コスモス)に対して「小宇宙」(ミクロコスモス)と呼ばれる通り、宇宙や歴史の現象と密接な関連をもち、多大の影響を与える存在でもある。宇宙に一つの普遍的な法則があるとすれば、それは人間にも当てはまり、逆に人間において発見される法則は宇宙的規模においても成立するのである。

 
そこで人間存在の様相についてもう少し具体的に考察しておこう。たとえば宇宙の基本的な存在形態の中に、「三数法則」というものがある。ユダヤのカバラにおいても「三」という数は神聖な数とされ、他の宗教でも深い意味をもつ数として扱われている。
 実際、宇宙を構成する光や色などを見ても、どんな複雑な光線でも「三原色」というたった三種類の原色に還元できる。物質の形態も気体・固体・液体という「物質の三態」が基本であり、空間も「三次元」であり、時間も「過去・現在・未来」という三方向で完結している。自然界も「鉱物・植物・動物」の三種に分類できる。このように宇宙には「三」という数理性が時間にも空間にも流れている。

 ところで、生物の成長形態も基本的には「三段階の成長過程」という現象が見られる。たとえば蝶の一生を考えると、土の生活をする幼虫の段階、地上生活をするサナギの段階、空中生活をする成虫の段階である。これを人間に当てはめる事ができるだろうか。
 人間は第一段階として、「水中生活」をする。母胎の中での約十ヵ月の羊水生活期間である。肺呼吸はしていない。血液や栄養分はヘソの緒を「命綱」として母胎から伝わってくる。この段階では母胎の影響が非常に大きい。妊娠中の母胎の栄養状態はもちろんのこと、「胎児教育(胎教)」などといって、母胎の精神状態も大きく影響するといわれている。
 第二段階は「地上生活」である。この期間は大体平均八〇年前後とも言われるが個人差が激しい。肉体の成長は主に口から摂取する栄養によるが、人間の場合、他の生物と違って精神的な成長(いわゆる人格の完成度)がその特徴である。ではその精神的成長はいかになされるのだろうか。

 「水中生活」の場合は母胎からヘソの緒という命綱を通して栄養分が与えられた。もしかすると、「地上生活」においても何らかの「命綱」が存在するのではないだろうか。霊の存在を否定する人にとっては荒唐無稽の事のように聞こえるかもしれないが、人間には肉体とは別に霊的な人体(霊人体)があり、霊人体と肉体の間にヘソの緒ではないが、一種の「命綱」(霊的なコードで、シルバーレイとも呼ばれる)が存在するとも言われている。真理や美に感動するのは、実は肉体や単なる頭脳ではなく、その霊人体の中心にある心なのだと考えられる。だから、その霊人体の感性を発達させる事こそ、地上生活においての最重要課題だということになる。

 そして、人間が水中生活を終える時に命綱であるヘソの緒を切るように、霊人体と肉体のコードが切れた時がいわゆる「死」を意味すると考えられる。脳死と心臓死が問題になることがあるが、厳密に言えばどちらもおかしいのだ。脳波が止まったかに見えても霊的な命綱が切れていなければ生き返る可能性はあるし、逆に心臓マッサージなどで心臓が動いているように見えても霊的な命綱が切れて霊人体と肉体が分離していれば、もはや実際には死んでいるのである。

 そして人間が肉体の死後に経験する第三段階の生活こそ「霊界生活」なのだという事になる。人間はまるで蝶が空中を飛び回るように、本来は霊界を自由に飛び回る存在なのだ。水中生活(胎中)においてトラブルがあった場合(例えば中毒症)、地上生活で支障が生じるように、地上で十分な人格的成長ができなかった場合、次の霊界生活に支障が生じる。 サナギの段階でトラブルがあったら蝶は飛べなくなる。同様に、人間の霊的成長が地上でなされなかった場合、霊界ではまるで「飛べない蝶」のような状態になってしまい、特定の場所にへばりついてしまう事もある。そういう気の毒なケースの場合、「地縛霊」と呼ばれたり、また定位置をもたない場合「浮遊霊」と称されたりしているようである。霊的な波動が地上の特定個人の霊人体の波動と共鳴する場合、生きている人間の霊人体にしがみつくこともあり、その場合には「憑依霊」と呼ばれたりもする。

 また、ヘソの緒を切って地上に出てきた以上はもはや母胎にもどれないのと同様に、霊界に行ってしまうと地上に戻れないことはいうまでもない。一方通行なのだ。死者が戻ってこないことは経験的な事実でもある。

 ●死んだ人が生まれ変わる?

 一般に、「生まれ変わり」という事が言われ、相当の大学者の中にもそのような説を信じておられる方があるので支持者も多い。また、この説に基づいて「前世占い」などを行なう占術家もおられる。しかし、本当だろうか。この問題も歴史の繰り返し現象と密接に関わるので、取り上げておこう。
 一度死んで霊界に行った人がもう一度地上に生まれてくるという考えが、仏教の「輪廻転生」に由来するようにも考えられているが、それははっきり言って正確ではない。仏教は釈尊の教えだが、輪廻の思想は釈尊以前から存在したインドの民族的信仰であった。釈尊はそのような土着の民間信仰を方便的に利用した事はあったかもしれないが、むしろ実証が不可能な議論は無益なものとして避ける姿勢こそ、釈尊の基本的なスタンスだったというべきなのだ(例えば、中村元『原始仏教』P.52参照)。

 それにしても人が転生するという現象はあるのだろうか。「歴史は繰り返す」といわれるが、確かにこれは一種の歴史の輪廻的な考えではある。面白い事に、同じような歴史が繰り返した場合、前の時代に出てきた人物と全く同じような立場に立つ人物が必ず現れる。しかし、その人は決して前の時代の人物の「生まれ変わり」(輪廻転生)ということではないのだ。

 現在、地上で56億ほどの人間が同時に生きている。しかし、これがみんな輪廻転生してきたという事はありえない。人口は爆発的な急カーブで増えたが、もしも同じ霊魂がグルグル輪廻転生しているとすれば、どうしてこんなに人口が増えるのか?増えた霊魂は、一体どこから割り込んできたというのか?これを輪廻説で説明する事は不可能である。

 また、日本の新興宗教の中で、たとえば「私は釈迦の生まれ変わりだ」という人が数名おられるとしよう(実際おられるようだ)。世界中、特にチベットあたりを捜せばもっといるかもしれない。これはどういう事だろうか。たとえば、二人の釈迦が地上で出会ったら何と挨拶するのか。「お久しぶり」というのもおかしい。釈迦同士が喧嘩するかもしれない。しかも奇妙な事に、別なところでは霊界にいる釈迦と真剣にチャネリングする人も何人もおられるのだ。こうなったらもう釈迦が何人いても間に合わないではないか。

 もう一つまことしやかな説として、人間は生き変わり生まれ変わりしながら人格の向上のために修行をしている、という輪廻説がある。しかし、残念ながらそれもおかしい。もしも、一生では足りないから生まれ変わって修行を重ねているのだとすれば、前世の修行の経験が前提になっていなければ全くその意味がないではないか。ところが生まれる時はみんなゼロから出発するのだ。
 しかも人類がそのような輪廻転生を繰り返すことで人格の向上を果たしてきたとすれば、古代文明からもう数千年も経っているのだから、驚くほど人格的な人間であふれているという現象が検出されなければ科学的説明にならないだろう。しかし実際にはむしろ倫理・道徳は極端に退廃しつつあるという事実をどう説明するのか。人格という面から考えても、古代のソクラテスやプラトンなどのほうが、平均的な現代人よりもはるかに優っていたのではないだろうか。
 ともかく輪廻説にとらわれて、大切な本当の自分を見失う事こそ実に恐ろしいことだと思う。自分の前世を占い師に聞いたら「オケラ」だと言われた人もいる。「なるほど。だから私は暗い性格なのか」などと納得している場合ではない。

 ●「輪廻転生」の正体

 生まれ変わりの考えは一般に非常に根強いので、一応の見解を明確にしておこう。
 まず、「悪い事をして死んだら来世で牛や馬になって生まれる」と言って、人間が地上の動物になって「生まれ変わる」ような事が説かれるが、何の根拠もない事である。
 しかし、その場合「来世」とか「次の世」というものを霊界生活という意味に解釈すれば、十分意味が通じるようになる。つまり地上での誕生を第一の誕生だとすれば、肉体の死は霊界における第二の誕生、「次の世」と解釈する事も可能だからである。
 実は、人間の霊人体というものの性質として、肉体とは違って相当の伸縮性というか、変幻自在の自由性を持っているのである。ある霊能者によれば、生前他人の意見ばかり気にして非常に憶病な生き方をしていた人は霊界では耳の部分がやけに大きくてキョロキョロしているウサギのような形になっているという事であった。その他、人間とは到底思えない形になっている場合があるという。肉体の表情には限界があるが、霊人体は心の状態がそのまま形になってしまうと言われている。

 その解釈法でいくと、仏教で「六道輪廻」という教理があるが、「畜生」とか「修羅」などといっても、結局は霊界における我々の心の姿を言い表したものであり、決して動物になって生まれ変わるというような事と解釈する必要など全くないのだ。「動物になって生まれる」という表現は、霊界の存在を科学的に説くことができなかった時代に用いられた、倫理的方便として大きな価値をもっていたと考えられる。

 次に、ある人が生前の誰かとそっくりの人生を歩む場合、「誰々の生まれ変わり」という表現が用いられる。これをどのように解釈するべきだろうか。たとえば、人に騙されて大きな借金をかかえてしまった人が、調べてみると四代前のおじいさんがやはり騙されて大借金で苦しむ生涯を送っていたことが分かったというような場合、「おじいさんの生まれ変わり」のように言われる事もある。しかしその場合でも、その本人自身が「生まれ変わって」出てきて人生をやり直している、などという解釈をする必要はない。
 そのような場合、前代の人物が果たす事ができなかった家系的な責任使命を、同一の位置や使命に立つ後代の特定の人物がもう一度彼に代わって責任を果たそうとする現象としてとらえられる。それは特定の使命が果たされるまで続くわけであるから、何代にもわたって似たような事件が続くという不思議な事も起こる。

 人間は単なる個人で生きている存在ではなく、家系的な位置関係や因縁(霊的事情)に拘束されながら生きるのである。その中で、重要なポイントとなる使命を持つ人もいるし、その人の判断ひとつで国家の歴史的な運命にかかわるような大きな使命を持つ場合さえある。
 そして、その使命が順調に果たされれば歴史はそのまま次の段階に進むのだが、もしもその使命が未遂行に終わった場合には、そこで家系や歴史が終わるわけにはいかないので、また別の人物が全く同じ使命を持って登場してくる。それが、見かけ上歴史が繰り返したように見えたり、先祖の因縁が繰り返しているように思われたりしてしまうのである。

 その際に、使命が未遂行で終わってしまった前任者の霊が同使命者である後任者に霊界から応援するように働くので、まるで前任者が生き返ったかのような印象を与える結果となるのだ。


 ともかく個人の寿命は限られている。しかし、人類は「類」としての歴史を連綿としてつないでいるのだ。家系の歴史や国家の歴史は、あたかも配役がどんどん替わっても脚本は同じものを何度も使う芝居のような性格をもっているのである。
 そして、この問題は歴史はなぜ繰り返すのかという、根本的な問題と密接に関係するものなのである。

 さて、人類の歴史の原点は、人間が「神の似姿」として、地上を真の愛で治めるという創造主の願いから出発している。それはあたかも「命の木」が地上に豊かに実を結ぶ姿にたとえられるものであった。神はその理想実現を人間始祖アダムに願ったのだが、彼はエバと共に堕落し、「命の木」に到達する事ができなかった。神はアダムを失い、「アダムよ、いずこなりや」(創世記3:9)と叫びながら、「第二のアダム」を求めてさまよう歴史が始まったのだ。そして、「命の木」を完成する者が歴史上に現れれば、その者を「命の木」繁殖の出発点として豊かに実を結ぶ再出発摂理を企画されたのである。
 それでは、なぜ人類歴史の出発時点においてそのようなハプニングが生じたのであろうか。どうしてアダムは堕落したのか?それは神の計算違いだったのだろうか?もし計算違いであれば、神は全知全能ではなかったのか?
 種々の疑問が当然提起されるべきである。しかしお待ちいただきたい。いっぺんに全部論じられないので、順番に検討していこう。