2.精神分析(心理学)による究明

本来は宇宙の主人として素晴らしい人格を備えるはずだった人間が、何ゆえ神と悪魔の混血児のような者に転落してしまったのか。一体、人類史の最初に何があったのか、その時「アダム」の身に何が起こったのだろうか。

我々はここで深層心理を扱う精神分析の問題を取り上げておこう。なぜなら、人間が神と悪魔の中間に位置するような精神を持つに至った事情(人類史の起源)について心理学的な分析を検討すれば何らかの手がかりを見出せるかもしれないし、また精神分析というものの限界が明確になるかもしれないからだ。そして、もしも人類誕生の根本にかかわる問題が精神分析によって全て解決できる性質のものであるとすれば、わざわざ聖書を持ち出す必要などはなくなってしまうとも考えられる。
ここでは、心理学界において革命的な業績を打ち立てたフロイトユングの学説を取り上げる。

 ●人間の根底にある性衝動(フロイト理論)

近代の心理学は天才的ユダヤ人学者フロイトによって一大飛躍をなしとげた。彼は、我々が日常何気なく使う言葉の「言い間違え」や、夢の内容などを分析し、その根底に本人自身が無意識的に抑圧している心理を浮き彫りにして見せる天才であった。彼の業績は、心理的抑圧が原因となって発病したノイローゼや身体の痙攣その他多くの病気を治療する上で実に画期的な進歩をもたらした。

フロイトの考え方によると、人間の意識の根底には「性衝動」(リビドー)というものが抑圧されているという。人間の言葉、行動、夢の内容、ちょっとしたしぐさに至るまで、よく観察すれば全て無意識の領域に抑圧されている性衝動が根底に存在しているというのだ。

私がフロイトの学説の中で特に画期的だと思うのは、彼が「幼児性欲」の存在を主張していることである。普通は思春期の年齢にも満たない幼児には性欲の衝動などは認められないと考えられるが、フロイトによると幼児の段階で既に性衝動があると断定する。この見解によって彼は多くの非難を受ける事になった。しかし彼は幼児に性衝動は見られないとする人々に対して、それは性愛と生殖とを取り違える誤りだと指摘して反論したのである(中公文庫『精神分析学入門』P.424 )。

確かに人間にとって性衝動というものは、容易にコントロールできるものではなく精神の根底に動かしがたく根を張っている。いかに偉大な聖者でも「性」の問題については大いに悩まされたのであり、それを完全に解決した人など存在しない。禅宗の出家僧やカトリックの修道者が基本的には一生涯異性との関係を厳しく断つことを大前提として修行するという事実から見ても、性衝動がいかに心の修行を根底から邪魔する根深い力を持つものであるかがわかる。もしもそうだとすれば、真の人間の心の解放というものは単に精神を分析するというだけではなく、その根底に存在する性衝動の真の構造を自覚的に解明することなくしては永遠に実現しえないのではないだろうか。

それでは、フロイト自身は無意識領域の性衝動が生じるメカニズムについてどのように考えていたのだろうか。私の知る限りでは、フロイトは無意識の領域が意識に及ぼす作用面においては鋭い分析を行なったが、無意識そのものの存在価値や根源的な発生のメカニズムについてはあまり言及していないのである。
実をいうと、まさにそこに彼の思考の限界があるのではないかと私は思うのだ。確かに、フロイトは通常は看過してしまうような性衝動の存在を見事に見抜いたことは卓見である。そして自我とリビドーとの葛藤状態を精神分析によって修正し、正常な自我のコントロールのもとにリビドーを置くようにする、という見事な治療方法についても一応理解しうるであろう。しかし、言わばそれだけの事なのである。それ以上に素晴らしい人間の真相に迫ったり、人格を向上させたり、更に進んで人間の感性の究極に至って超越的なものに触れるという次元にまで突き進む事はできないのである。フロイトがなしたことは、あくまでも精神を対象とした「分析」であって、更にその奥の次元を訪ねるということは基本的にはなかったのである。

もしもそうだとすると、なぜフロイトは無意識の領域に更に足を踏み入れながら、もっと深い次元の領域に進もうとしなかったのであろうか。私の考えでは、その原因はやはり当時の進化論および機械的唯物論による思想がフロイトの研究姿勢に大きく影響していたのではないかと思うのだ。

実際、彼が唯物的な考えを強く持っていたことは、彼が人間の心のことを「心的装置」と呼んだ事からもうかがえる。そして彼がダーウィンに感銘を受け、人間も結局はサルと本質的には変わらないという思想を根底に抱き、当時の思想的風潮の限界を一歩も踏み出ていなかったのだ。

そして、このようなフロイトの研究姿勢や分析の結果に対して限界を感じ、人間の無意識のもつ神秘的な側面を独自の手法でほるかに深く追求していった人物こそ、フロイトの弟子だったユングなのである。フロイトとユングとの師弟決別の話は有名であるが、それはむしろ唯物的な考えに限界を感じていくという時代の流れでもあったのだろう。

 ●人類は根底でつながっており、神にも通じる(ユング心理学)

さてユングは、最初フロイトの夢解釈の理論等に非常な感銘を受け、一時はフロイトの後継者と考えられていた。しかし、ユングは性理論で人間存在を解釈するフロイトの論議について限界を自覚していた。そして、やがて二人は対立する。

フロイトは性衝動の抑圧理論で象徴されるように、無意識の世界というものを何かドロドロした陰的なイメージで解釈しようとするが、それに対してユングは人間の無意識の奥底に神秘と輝きに満ちた幻想的世界を発見したのである。「フロイトにとって無意識とは、意識によって洞察され、合理的な自我によって支配されるべきものであったが、ユングにとって無意識とは、人類に普遍的な心象を生む生命的な基盤であり、人類の根底につらなる創造的エネルギーをもつ領域であって、個人の心を真に支える層と考えられた」(馬場謙一教授『フロイト精神分析入門』P.26)というわけである。

ユングによると、人間心理の深層においては人類の共通無意識というべきものが存在していて、そのイメージは古代の神秘思想占星術にも通じており、超常現象とも深く連係しているという、非常にファンタスティックなものである。

それは、唯物思想に拘束されていたフロイトにとっては思いもよらぬ世界であり、むしろフロイトなどにとっては観念的でつまらぬ空想のように思われたに違いない。

私は、フロイトが見た深層の世界もユングが見ている世界も、同じ「最深層」に違いないと思う。人間がドロドロした性衝動を、生まれながらにして内に秘めている存在である事を発見したフロイトが人間の悪魔性の根拠を追求したものとして評価しうるとすれば、ユングは人間の持つもう一つの側面、すなわち人間が神の存在を明確に認知しうるほどの高次元的存在であるという事実を古今東西のあらゆる神秘思想の検証によって証明しようとしたものとして高く評価しうるのではないかと考えられる。

ユングの残した業績は大きい。歴史上異端とされていたグノーシス派の思想や錬金術、更には仏教の曼荼羅などに対しても分析心理学的な観点から光を当てた彼の姿勢は、人間の精神というものが時代や国境や宗派などをはるかに超越する、本来的にグローバルなものである事を教えてくれる。その研究姿勢の根底には人類が心の深層において共通の普遍的無意識でつながっているという考えがある事はいうまでもない。

また彼の業績は人類の普遍的共通無意識の発見だけではなく、その中に人類がもつ共通の「元型」となるイメージ(たとえば「老賢者」「影」など)が具体的に存在するという事を突き止めた点も画期的であろう。

人類共通の「神話」に心の根源的構造を見出す

そのようなユング心理学の研究方法として最も注目に値するのは、ユングが多くの神話伝承を心理分析の観点から解釈し、そこに人類が共通して持っている無意識世界の構造を見出そうとしている点である。人類共通の遺産である神話はきわめて素朴で神秘的である。そこには、人間の精神の根本にある超越的なエネルギーや根源的な葛藤の構図の「元型」がイメージ的に描かれているのだ。そのように考えれば、神話こそ人類が歴史を超えて共通に体験した、根源的事実を必死で訴えようとしている貴重なメッセージだと言うことができるであろう。

すなわち、フロイトやユングによる鋭い精神分析や心理学の研究の流れとして、最終的には人類共通の無意識の存在という事実に迫ってきたのであり、その根源的な構造を解明するに当たって人類の「心の故郷」ともいうべき神話を分析するということに一つの画期的な方法論を見出したといえるのである。

そして、言うまでもなく人類最大の神話の宝庫が「聖書」なのである。それゆえ、我々はユングと共に、いやユングを超えて人類最古の神話が秘められた聖書の謎解きに挑戦し、フロイトの説いた性衝動の構造の問題をも含めて人類歴史の出発時点におけるアダムの「元型」(生命の木)にまつわる謎を一挙に解いてしまおうではないか。