4.サタンの血統が人類史を支配した

●原罪を背負った全人類

 人智学協会を設立した天才的神秘学者であるルドルフ・シュタイナー博士は、『仏陀からキリストへ』の中で、次のように述べている。
  「…このルツィフェルの影響は最初の夫婦、アダムとエヴァが地上に生活していた時に入り込みました。…ルツィフェルの影響はアダムとエヴァのアストラル体にまで及び、その影響はアダムとエヴァの子孫たちに血を通して遺伝してゆきました」(『仏陀からキリストへ』P.37、邦訳原文旧かな遣い)
 シュタイナー博士の描写は実に驚くべき迫力を持っているが、正確に言えばルーシェルがエバに与えた強烈な思念や欲情は、エバの霊人体を汚しつつ無惨に刻印され、そのエバがいまだ「命の木」を完成していないアダムとの間にも(地上で)肉体関係をもつに及んだので、子々孫々にまでサタンの影響が血統を通して遺伝するようになった、ということなのである。
 これによって、我々の人類史は結局サタンの血統支配から出発したのである。我々は、どんなに逆立ちをしても、泣いても笑っても、生まれてくる我々の子供はアダムとエバの原罪を背負っているのだ。

 アダムが堕落したために、人類は血統的にはサタンの子孫というべき存在となってしまったのだ。それゆえイエスは、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と述べ(「ヨハネ」8:44)、また旧約聖書ではサタンがヘビとして表記されているので、イエスは「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか」(「マタイ」23:33 )とも語られ、人類が血統的にサタンの子孫である事を指摘したのである。

 それでは、もしもアダムが堕落せずに「命の木」を完成し、エバと真の家庭を築いて子孫を残したならば、どうだっただろうか。恐らく現在のレベルの高等文明はアダムから三代以内で成就していただろうと考えられる。人間の脳や体細胞が本来はとてつもない機能を持つという事は前章で述べた通りだが、人間始祖の時点でその機能が全開していれば、文化の発展速度は現在と比較にもならなかったであろう。
 しかもその文化は、神を明確に認識する人類のネットワークであり、言語も人種も分裂していなかったのである。物質的な面と同時に精神的にも全く今の人類の状況とは異なる、想像もつかないものではないかと思う。

 人類が愚かな紛争の歴史を繰り返してきたのは、人類史の原点が解明できなかったからである。スタートラインが不明確なので、どこに向かうべきなのか、あるいはどこに戻るべきなのか、全くわからずにさまようばかりなのである。
 人類は、人間始祖以来かかえてしまった、この血統的問題を解決する事なくして真の歴史を再出発する事は絶対にできないのだ。

●サタンが喜ぶ唯物論思想

 人間は長い間、サタンの正体とその罪状を見抜く事ができなかった。霊界にいるサタンの立場からすれば、人間があまり霊界というものに関心を持ち始めると自分の正体に迫られる事になるので都合が悪い。したがって、霊の存在を認めず、この世界は唯々物質があるのみだと主張する「唯物論」という思想はサタンにとって非常にありがたい思想なのだ。
 また、人間の本質はあくまでも霊である。だから、霊の存在を認めない唯物思想はまさに人間の本質を骨抜きにするものであり、この意味でもサタンにとってはこの上なくありがたいものなのである。唯物論は人間が宇宙から霊界までも統治する主人である事を、人間自身が放棄するものだからである。

 唯物論の思想家は、やがて共産主義社会主義という独裁国家をつくった。しかし、近年になって共産主義国家が崩壊していくと同時に、唯物論が理念においても政策においても人間の本性を殺してしまう性格をもつものであるという事実が世界中に暴露されることとなったのである。

●聖書は人間が「理想家庭」を喪失した原因を説いている

人類は原罪という暗い影を引きずりながらも巨大な文明を発展させてきた。しかし、真実の原点を失ってしまったため、醜い戦争や差別、殺人、暴力、略奪などの行為も同時にエスカレートしていったのである。事実、現在の世界は今まで考えられなかったような奇怪な犯罪が横行している。日本においても、特に青少年による不可解な犯罪が急激に増えたことはよく知られている。それは、経済などの物質一点張りの唯物論的な誤った考え方が流行し、戦後の日教組の方針等によって心の教育面が全く不在になったことが直接的な原因ではあるが、それを人類史全体から考えてみると人類誕生の当初からその全ての原因が集約さていたのである。

 アダムとエバは不倫による間違った愛によって結ばれ、そういう親の元で長男カインは弟アベルを殺害するという悲惨な家庭内殺人事件を起こしてしまった。すなわち、聖書に書かれた人類最初の家庭において既に現代の社会が抱えている問題が凝縮されているのである。大人の不倫の愛の元で教育された子供たちが引き起こす悲惨な殺人事件……。聖書には、人類が今日まで引きずってきた課題の原点が秘められているのだ。

 現代社会の病理はこの原点を無視しては絶対に解決されない。そして、聖書はどこまでも人類が到達するべき理想の家庭というものを最大のテーマとして文脈が続いているのである。聖書は単なる歴史の本でもなく、神の子の出現だけをテーマにしている書物でもない。最終的に、全人類が理想の家庭の姿を取り戻して、神と人と天使たちが真に喜怒哀楽を共にすることのできる地上の天国、天上の天国を実現しない限り、聖書の意図は達成されないのだ。

 また、聖書は何もクリスチャンの独占物ではない。むしろ、長年の信仰の伝統によって解釈がしばられたクリスチャンの型にはまった読み方ではなく、現代社会に生きる我々が真に必要とする生きた回答を求めながら聖書を読むことが最も望ましいと思われる。信仰の枠にとらわれることなく、すなおに聖書の記述をたどっていこう。