5.旧約聖書最後の預言「マラキ書」

●預言者マラキが「エリヤ」の再来を予告・・・沈黙の400年

 ユダヤ民族はバビロンから帰還して、ペルシャの統治時代に入っていた。しかし、その統治はきわめて寛大であった。そんな環境の中でユダヤ人は選民としての自覚を育てていったのだ。そして、民族の霊的復興の大きなファクターとなり、選民の心強い支えとなった預言こそ、旧約聖書最後の書となっているマラキの預言なのである

 周知の通り、旧約聖書の最終ページはマラキの預言で終わっており、その後イエスが誕生するまでの400年間、これといった預言者は出ていない。それゆえこの期間は神の直接的なメッセージを伝えた記録がなく、キリスト教史では「沈黙の400年」とも言われている。では、旧約最後のマラキの預言とはどういうものか、見てみよう。

見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。
 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。
 これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである
」 (「マラキ」4:5 〜6 )

 つまり、預言者マラキが言うには「主の大いなる恐るべき日」(メシヤ到来の日)の前に、あの預言者エリヤが現れる、そしてエリヤが父と子の心を結びつけるというのだ。少し注釈が必要だが、選民にとって「主の恐るべき日」はメシヤの審判以外に考えられない。そして、そのメシヤは、イザヤ書第9章6節によれば「その名は、『霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」とあり、神のような権能をもつと同時に「父」なのである。つまり、人間始祖アダムが「命の木」を完成していたら、当然に神の言葉通りに子孫を生みふやして、人類の真の「父」、とこしえの父となる予定であったごとく、来たるべきメシヤは人類にとって「真の父」なのだ。

 したがって、メシヤの前に再来するという預言者エリヤは、父(メシヤ)の心と子(選民)の心を結ぶ、紹介者あるいは仲介的な役割を果たす者と考えられるのだ。よく考えれば、メシヤが誕生したとしても、その人が自分で自分を指さして「私がメシヤです。よろしく」などと言っても、何の保証もないではないか。単なる大嘘つきだという事もありうる。それゆえ、メシヤが登場する時は、全ユダヤ人によって信頼されている預言者的人物(預言者エリヤの再来)がどうしても必要なのである。

 ともかく旧約聖書はマラキ書で終わった。「旧約はその頁を閉じて400年が経過した。そしてメシヤが来られた。ヘブル民族はこのメシヤをもたらすために生まれたのであった」(『聖書ハンドブック』P.359 )とハーレイ博士は述べておられる。実にその400年こそ、メシヤ誕生を国家的、世界的に準備する文明発展の期間となったのである。

 そして、この預言の通りにメシヤ(イエス・キリスト)が登場するのである。ところが、まさにこの「マラキの預言」のゆえに、ユダヤ人たちはメシヤが誰であるかということよりも、むしろ「エリヤは誰か」ということの方が常に先決すべき大問題であったのだ。なぜなら、仮に“私はメシヤである”と名乗る人物が複数登場したような場合、どの人物が本当に正真正銘のメシヤであるということを証明するためには、マラキが預言した「エリヤ」に該当する預言者的人物の存在が絶対的に不可欠だからである。では、一体メシヤを証言するエリヤとは誰のことだったのだろうか?

 実はイエスの登場した時、この「エリヤ論」が最大のネックとなり、それを巡ってユダヤ民族の中に大混乱が生じたのだ。その結果、イエスをメシヤとして信じたくても、信じるに信じられない人類史上の一大悲劇が展開してしまうのである。

 そこに秘められた歴史的事情を、従来のクリスチャンの方々には思いもよらない観点(統一原理の視点)から完全に解明してみよう。 ただ、その問題は第5章で扱う事にして、その前にイエスという人物が人類史上どういう位置に立っていたのかという問題について検討しておきたい。なぜなら、歴史というものが現実に常にメシヤの登場という一つの焦点を意識しているかのように動いているという事実をよくよく認識しておく必要があるからである。